勝幡城推定復元模型 360度ビュー

勝幡城推定復元模型(愛知県愛西市提供)

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撮影位置1
撮影位置2
撮影位置3
撮影位置4

勝幡城址について勝幡城跡について

勝幡城の当時をうかがい知るものとして、

“「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城跡」の石碑と「文化財史跡勝幡城址」の木碑があります。
日光川の嫁振橋には、その東西共に「勝幡城復元図」が埋め込まれています。遺構等を目にすることはできません。
この地は、元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で織田信定または信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。
勝幡城は、永正年中(1504~1521)織田弾正忠信定によって築かれたと伝えられています。
信定は岩倉城主織田敏信の弟で、はじめ小口城主となり木下城主を兼ねていましたが、ここに築城して居住し、享禄元年に没したといわれています。信定の長子信秀は、永正5年この城に生まれ、父の没後その後を継ぎ、尾張守護斯波氏の三奉行として、清須に勤仕しました。
勝幡城の城域は、愛西市・稲沢市に広がりますが、城の中心は平和町城西(現在の城之内)付近と推定され、碑のあるあたりは城跡の南端部分と考えています。尾張の中近世史を考えるうえで、重要な城跡であるといえます。
二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていました。「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西29間、南北43間、幅3間の方形土塁と記されています。三宅川と日光川が合流する三角州となっていますが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現日光川に位置するため当時の縄張りは窺うことができずたいへん惜しまれます。
1533年(天文2年)、山科言継が信秀により、勝幡城に招かれた際、その規模と出来栄えに驚いたと日記に記されています(『言継卿記』)。このことから津島を商業地として支配下に置いた「弾正忠家」の経済力を窺うことができます。
翌年の天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、勝幡城で産まれたといわれています。のちに清洲城が「弾正忠家」の本拠となり、家臣で城代の武藤掃部も尾張野府城へ移されたため、次第に衰退して、勝幡城は廃城となりました。
昭和54年の冬、排水工事のさなか、現在の勝幡城址の石碑の近く(字城之内103番地)の約3メートルの地下から、大きな基石が見つかり、間違いなく城址より発見された「遺石」として、現在は、草平に保存されているとの記載があります。この「遺石」は、勝幡城の古図面との照合では、櫓台のあった位置から出土しており、興味をそそられる貴重な「遺石」と言えますが、その所在が不明となり、心配されておりましたが、最近になって、佐織支所の旧町長室脇にあることが判明致しました。
※信長の生誕は1534年ですが、信秀が那古野城を攻略して移ったのは実際はもっと後という説もあり、信長はこの勝幡城で生まれてから那古野城へ移ったという説が今では主流になっています。“
※「文化財史跡勝幡城址」の木碑は、現在ありません。

市指定文化財(史跡) 個人(所有者) 稲沢市平和町城之内(住所) 平成17年10月1日指定

出典元:特定非営利活動法人信長生誕を育む会

勝幡城の推定位置について

アクセスマップ(勝幡城跡ゆかりの地)

勝幡駅周辺
勝幡城推定復元模型・織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像・水郷の吉法師石絵

愛知県愛西市勝幡町五俵入2266番地4

名鉄津島線:勝幡駅(名鉄名古屋駅から約22分)


勝幡城推定復元模型

勝幡城推定復元模型

勝幡城跡に導く石碑

勝幡城跡に導く石碑

水郷の吉法師石絵

水郷の吉法師石絵

織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像

織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像

勝幡城跡周辺
織田弾正忠平朝臣信定古城跡石碑・勝幡城址石碑

愛知県稲沢市平和町六輪城之内


織田弾正忠平朝臣信定古城跡石碑

織田弾正忠平朝臣信定古城跡石碑

勝幡城址石碑

勝幡城址石碑